今日は、閉校・有終記念「アンネのバラ植樹体験」を行いました。植えた場所は浅茅野小学校玄関前の「願いの碑」のすぐ横の花壇です。
この活動は、浅茅野小学校が大切にしてきた平和学習ととても深く関わるので、以前にHPで紹介したことがありますが、もう一度、この「願いの碑」と「アンネのバラ」について触れておきます。



【願いの碑】
原爆ドームのすぐそばを流れる元安川。81年前の1945年(昭和20年)、広島に原爆が落とされたときの地表の温度は3000~4000℃で、ものすごい爆風が襲いました。(ものが燃えるのは約300℃ですから想像もつかない熱さです。)多くの人が水を求めて飛びこみ、そのまま命を落とした川の中には、今でも、原爆の爆風でふき飛ばされた瓦、建物の一部、犠牲者たちの遺品が沈んだままになっています。広島市では、原爆投下で一変した広島の街の記憶を探し求める活動が続けられています。
浅茅野小学校には、広島市の元安川から発掘された瓦を埋めこみ、「ねがいをこめて」と刻まれた「願いの碑」があります。1983年(昭和58年)に、当時の先生が、広島の高校生による原爆瓦の発掘の取り組みを知り、広島から送ってもらったものです。それから40年以上、最北端の地から平和への願いを発信し続けています。



【アンネのバラ】
アンネ・フランク(1929年~1945年 15歳で一生を終える)は、戦争の犠牲者の1人です。ユダヤ人であると理由だけで、ドイツ国内で差別を受け、オランダへ逃げながら生活を続けます。(戦争当時、ドイツから迫害されたユダヤ人は600万人もいました。)そのオランダでの2年間の隠れ家における生活を綴った日記は、「アンネの日記」として世界的に有名です。アンネ・フランクは、1944年に隠れ家を発見され、家族と共に、強制収容所へと移送され、15歳にしてその命を落としました。(父のオットー・フランクだけが、戦争後、強制収容所から生きて帰ることができ、隠れ家に残された「アンネの日記」を、世の中に送り出すことができました。)
「私が私として生きることを、許してほしい。」
「幸せな人は誰でも、他の人をも幸せにするでしょう。」
「あなたのまわりにいまだ残されているすべての美しいもののことを考え、楽しい気持ちでいましょう。」
「薬を10錠飲むよりも、心から笑った方がずっと効果があるはず。」
「もし、神さまが私を長生きさせてくださるのなら、私は社会に出て、人類のために働きたいのです。」・・・
どれだけ大変な中にいても強く生きようとしたアンネの言葉は、現在でもたくさんの人々を勇気づけています。
「アンネのバラ」は、自然を愛し、とりわけバラが好きだったアンネ・フランクの「形見」としてつくられたバラです。日本へは父のオットー・フランクから寄贈された物が広まり、愛と平和のシンボルとなっています。アンネのバラは、蕾の時は赤、開花後に黄金色、サーモンピンク、そして赤へ変色する特徴があります。これは、もし生きのびる事ができたなら、多くの可能性を秘めていたアンネを表現していると言われています。
浅茅野小へは、1981年(昭和56年)に、3株のアンネのバラが届きました。「平和の学習として、ぜひ子どもたちといっしょに育てたい」と願った当時の先生が、「送ってほしい」と手紙を書いたことが始まりでした。それから、45年間、子どもたちや教職員の手によって守り育てられ、毎年きれいな花を咲かせています。









40年以上前、この2つの教育活動に直接携わられた嶋中 豊氏(元浅茅野小中学校教諭:私たちの大先輩の先生です)を講師に招き、全校児童で植樹体験を実施しました。
低学年と高学年では、時代背景や戦争についての理解の違いはあります。それでも「今やっていることは、大事な平和学習の1つなんだ。」「浅茅野小が40年以上も前から大切にしてきたことを、自分たちも体験しているんだ。」「まだまだ知らないことがたくさんある。もっとくわしく知りたい、学習したい。」・・・子どもたちのこのような思いは共通であったと思います。
「このような活動を『子どもたちの手で』やらせることが1番教育的だと思う。」と話された嶋中先生。子どもたちにとって、過去と現在がつながる、浅茅野小の歴史に触れる、平和についてあらためて考える・・・そんな時間になりました。
時代を超えてつながっていく平和への願いや重なり合う思い、今日は、「人」としての。とても貴重な学びになったなあと感慨深く思う1日でした。
対話や直接体験を通して、子どもたちの心にやさしくノックしてくださった嶋中先生、本当にありがとうございました。自分たちにはまだまだできることがある、そんなかけがえのないヒントとして・・・。